東大阪市若江:木村重成旧蹟巡り

2016年9月3日(土) ①


先日、東花園から難波まで歩いた際に通過した若江岩田駅。大坂夏の陣における八尾・若江の戦いで豊臣方として奮闘した木村重成の遺跡が多く残されているところとは知っているが、未だ訪問したことがない。ということで、ネットで探し出した「東大阪ええとこMap」を手に、再び近鉄奈良線の若江岩田駅にやってきた。



近鉄の高架工事のため、若田岩田駅は未だ仮駅舎といった感じだが、希来里(きらり)と命名された複合施設など、駅前の開発は進んでいる。路上には希来里の完成を記念して製作されたと思われるマンホールが嵌められている。



夏祭りがピークと思っていた河内音頭だが、9月にも関連のイベントが目白押しのようだ。何人もの歌手のポスターが駅前に貼りだされている。東大阪ラグビー音頭なるものも見られるが、これも河内音頭からの派生なんだろうか。



駅前から岩田本通商店街を南に進むと、住居が切り取られたような一角に飯島三郎右衛門の墓がある。地元高井田の出身で、木村重成に加わって戦った末、若江で討死したそうだ。



地図によると左の道が、激戦が繰り広げられた若江堤の跡ということだ。ブラタモリのように、高低差などから当時の地形を想像することはできないが、おそらく、この辺りは当時は人家も疎らな農村地帯だったのだろう。戦当日の若江堤には深い霧が立ち込めていたそうだ。



長沢辻地蔵。お地蔵さんは14世紀のものなので、八尾若江の戦いの際には、若江堤の土手にあって、木村重成らの奮闘を見てきたことになる。



若江木村通。木村って、おそらく、いや間違いなく、木村重成に由来するもののはずだ。



木村重成の陣屋跡を探すのにウロウロとさせられる。地図に示された付近には案内標識も何もない。よく見ると、道から少し入った駐車場の奥にこんもりとした緑があって、これがまさかの陣屋跡だった。



陣屋跡には、木村重成の像が建立されている。それはいいとして、周囲は草ぼうぼうで、長らく手入れもされていないようだ。間もなく、NHKの真田丸でも木村重成が登場するはずなので、きっと少なからぬ人がここを訪れると思うのだが・・・。



陣屋跡の近くにある蓮城寺に、木村重成の位牌が祀られているらしい。境内にあるお堂の前には真田丸や木村重成の幟などがあって、ちょっといい感じになっている。



まさかとは思ったが、お堂の扉に鍵がかかっていなかったので、内部を拝見させていただく。写真では見たことがあったが、重成の位牌と肖像画が祀られていた。肖像画は極彩色で、大阪城の女官に大人気だったという、育ちと人柄の良さが感じられる。



蓮城寺の隣にある若江鏡神社。境内の石灯篭に、「雨乞御礼」の文字が見られる。水不足に苦しんだ付近の三つの郷が、 若江鏡神社に雨乞い祈願をしたところ、見事雨が降ったことに対するお礼の奉納のようだ。



若江城跡。かつて 河内一国を支配していた畠山氏の居城だったところだ。外堀まで含めると南北700m、東西600mの大規模な城郭だったらしいが、応仁の乱や織田信長との戦いなどで、完全に破壊されたようだ。



若江城跡と書かれた石碑の隣には、頌徳碑が建立されている。昭和59年にこの地の農業振興に尽力したことを讃えているのだが、どうしたことか、肝心なところが黒塗りされている。一体何があったのだろうか。



別の碑も同様に墨消しのように、碑文の上にパテのようなもので上塗りされている。こんなことをするくらいなら頌徳碑そのものを撤去した方がいいのではないだろうか。



大阪から斑鳩竜田に通じる十三街道を示す石碑。十三街道を西進してきた井伊隊とこのあたりで衝突したのだろう。



東大阪市と八尾市の市境となる第二寝屋川。東に生駒の山々が聳えている。



第二寝屋川の北側の墓地のなかに、徳川方武将、山口重信の墓がある。飯島三郎右衛門を討ち取ったものの、木村重成の槍で絶命したそうだ。



山口重信の墓と、第二寝屋川を挟んで向かい合うように木村重成の墓所がある。江戸時代の大坂では、定期的に木村重成ブームが巻き起こり、この墓地に大勢が墓参したそうだ。大阪に多い典型的な「残念さん信仰」だ。



墓所の入口にある石碑。「噫(あゝ)忠勇義烈」と書かれている。中之島にも木村重成の大きな頌徳碑がある。真田幸村ばかりではなく、毛利勝永、長宗我部盛親、明石全登、後藤又兵衛などなど、決死の思いを抱いた望んで戦いに挑んだ豊臣方武将には、それぞれを主人公にした壮絶なドラマが描かれている。



東大阪の若江岩田駅から木村重成ゆかりの地を巡ったが、大したウォーキングにもなっていない。八尾との市境まで来ていることなので、引き続き八尾市内の物部守屋ゆかりの地を目指すことにする。(②に続く)